
「車で回る遍路など、本当の遍路ではない」
そんな言葉を目にすることがある。
歩いてこそ遍路だ。
汗を流し、足を痛め、雨に打たれ、山道を越えてこそ遍路なのだ。
たしかに、そうなのだと思う。
歩くことには、車では決して得られないものがある。
自分の身体で道の長さを知り、坂の険しさを知り、風の冷たさを知り、疲労の中で自分自身と向き合う。
一歩一歩、自分の身体で四国を刻んでいく。
その意味で、歩き遍路には、歩き遍路にしかない尊さがある。
僕は、それを否定するつもりはない。
むしろ、心から敬意を抱いている。
しかし、ここで一度、立ち止まって考えてみたい。
そもそも、遍路とは何なのだろう。
遍路は「苦労の量」を競う旅なのか
もし遍路の価値が「どれだけ苦労したか」で決まるのだとしたら、僕たちは遍路を奇妙な競技にしてしまう。
百キロ歩いた人より、二百キロ歩いた人のほうが偉いのか。
山道を十時間歩いた人は、五時間しか歩かなかった人より深い遍路をしたことになるのか。
では、車を使った人は、歩いた人よりも下なのか。
高齢の人はどうなのか。
身体に不自由を抱える人はどうなのか。
仕事や家庭の事情を抱えながら、わずかな時間を縫って四国へ向かう人はどうなのか。
歩くことのできない人には、遍路への扉が閉ざされてしまうのか。
僕には、どうしてもそうは思えない。
なぜなら、遍路というものを「苦労の量」で測り始めた瞬間、遍路の一番大切なものを見失ってしまうような気がするからだ。
人は、なぜ四国へ向かうのか
人は、何もないのに遍路へ向かうのだろうか。
おそらく、そうではない。
何かを失った人。
人生に迷った人。
自分の生き方を見つめ直したい人。
大切な人を亡くした人。
病気や老いと向き合っている人。
家族のことで心を痛めている人。
過去を背負いながら、それでもこれからを生きなければならない人。
人は、それぞれの人生を抱えて四国へ向かう。
だから、遍路の姿も一つではない。
白衣を着て歩く人もいる。
自転車で回る人もいる。
バスで巡る人もいる。
車で巡る人もいる。
そして、それぞれの人間が、それぞれの人生を背負って道に立つ。
僕は、そこに遍路の本質があるように思う。
納経帳は、人を守る魔法ではない
ある記事を読んだ。
2011年、紀伊半島を襲った大水害によって両親を失った男性のもとに、泥にまみれた納経帳が残された。
その納経帳には、母親が五度にわたって四国八十八ヶ所を巡った記録が残されていた。
家は流された。
大切なものも失われた。
しかし、母親が生きた証だけは、納経帳の中に残った。
やがて息子は、その納経帳を携えて、自分自身も四国遍路へ向かった。
妻と妹とともに八十八ヶ所を巡り、高野山へ向かい、弘法大師空海の御廟に手を合わせたという。
その旅は、亡くなった家族への供養だった。
そして、自分自身がこれから生きていくための旅でもあったのだと思う。
ここで、「納経帳が残ったから母親が守られた」と考える必要はない。
納経帳は、災害を防ぐ魔法ではない。
祈れば死なないわけでもない。
神仏に手を合わせれば、病気も災害も人生の苦しみも消えてなくなるわけではない。
それでも、その納経帳には、とてつもない力がある。
それは、母親が生きた時間を、息子が受け取ることができたということだ。
母親が歩いた道を、今度は息子が歩く。
母親が手を合わせた場所で、息子も手を合わせる。
そこには、単なる「スタンプ集め」では説明できないものがある。
祈りとは、願いを叶えてもらうことなのか
僕は、遍路を始めてから、祈りというものについて考えるようになった。
以前の僕は、祈りとは「お願いすること」だと思っていた。
どうか、こうなりますように。
どうか、悪いことが起こりませんように。
どうか、幸せになりますように。
しかし、遍路を歩いていると、少し違うものが見えてくる。
祈りとは、世界を自分の都合のいいように変えてもらうことではないのではないか。
過去を消してもらうことでもない。
死をなかったことにすることでもない。
苦しみを人生から取り除いてもらうことでもない。
むしろ祈りとは、「この現実を抱えたまま、それでも私はどう生きるのか」を、自分自身に問い直すことなのではないか。
神仏に向かって手を合わせながら、実は自分自身の生き方を見つめている。
「私は、これからこう生きます」
そう静かに決めること。
それもまた、祈りなのではないか。
遍路は、現実から逃げる旅ではない
遍路に出れば、人生の問題が消えるわけではない。
帰れば、また日常が待っている。
家族の問題もある。
仕事の問題もある。
お金の問題もある。
老いもある。
病もある。
人間関係もある。
過去に起きた出来事を、なかったことにはできない。
遍路は、現実から逃げるための場所ではない。
むしろ逆なのだと思う。
一度、日常から離れて歩くことで、自分が日常の中で何を恐れ、何に執着し、何に苦しみ、何を大切にしているのかが見えてくる。
そして再び日常へ戻っていく。
問題は何一つ解決していないかもしれない。
それでも、自分の中にほんの少しだけ変化が起きている。
「この現実を、もう一度生きてみよう」
そう思えるようになっている。
それだけでも、遍路には大きな意味があるのではないだろうか。
では、車遍路は遍路ではないのか
僕は車で遍路をしている。
だから、ときどき考える。
「車で回って、本当に遍路と言えるのだろうか」と。
歩き遍路の人から見れば、僕の旅はずいぶん楽に見えるかもしれない。
それは当然だと思う。
車には車の便利さがある。
歩き遍路が背負う苦労を、僕は背負っていない。
そこを誤魔化す必要はない。
だから僕は、歩き遍路と同じ価値があるなどと主張したいわけではない。
歩く人には、歩く人の遍路がある。
僕には、僕の遍路がある。
そして僕は、自分にできる方法で四国を巡っている。
車を降り、境内を歩く。
本堂で手を合わせる。
大師堂で手を合わせる。
境内の空気を感じる。
その寺まで自分が辿ってきた道を振り返る。
そして、また車に乗って次の札所へ向かう。
僕にとって、それも間違いなく遍路なのだ。
遍路とは「どこまで歩いたか」ではなく「何を抱えて歩いたか」なのかもしれない
僕は最近、遍路というものを少し違う角度から考えるようになった。
人は、四国へ何をしに行くのだろう。
八十八ヶ所の寺を回るためだけなのか。
納経帳を埋めるためだけなのか。
御朱印を集めるためだけなのか。
結願という一つのゴールへ到達するためだけなのか。
もちろん、それらも遍路の一部なのだろう。
しかし、それだけではないはずだ。
人は、人生を抱えて四国へ来る。
そして、四国の道に自分自身を置いてみる。
歩きながら考える。
車を走らせながら考える。
寺で手を合わせながら考える。
何度も同じことを考え、何度も迷い、何度も立ち止まり、それでも次の札所へ向かう。
その繰り返しの中で、少しずつ自分自身との距離が変わっていく。
昨日まで絶対に許せなかったことが、ほんの少しだけ許せるようになる。
どうしても手放せなかったことを、少しだけ手放せるようになる。
未来への恐怖が、ほんの少しだけ小さくなる。
そして、自分が生きている今日という一日を、もう一度受け取れるようになる。
もし、それが起きるのなら。
それは、十分に「遍路」と呼べるのではないだろうか。
遍路とは、人生をもう一度引き受ける旅なのかもしれない
僕は思う。
遍路とは、寺から寺へ移動することだけではない。
八十八という数字を完成させることだけでもない。
歩いた距離でもない。
苦労した量でもない。
誰かと比べて、自分の遍路が本物かどうかを証明することでもない。
遍路とは、自分が背負っている人生を、いったん道の上に置いてみることなのではないか。
そして、その人生を見つめ直し、もう一度、自分の手に取り戻す。
それが遍路なのではないかと思う。
だから、あの記事に登場した男性にとって、母親の納経帳を携えて四国を巡った旅は、間違いなく遍路だったのだろう。
それは、母親を忘れないための旅だった。
失われた時間を抱えるための旅だった。
そして、残された自分が、これからを生きていくための旅だった。
そこに、何キロ歩いたのかという問いは、もはや本質ではない。
僕は、僕の遍路をする
僕は車で四国を巡る。
歩き遍路ではない。
だから、歩き遍路の人と同じ苦労をしているとは言わない。
その違いは、そのまま受け入れる。
そして、歩いて八十八ヶ所を巡る人たちには、心から敬意を払いたい。
ただ、それでも僕は、自分の遍路を否定したくはない。
僕には僕の人生があり、僕には僕の事情がある。
その人生を抱えたまま、それでも四国へ向かう。
寺に着けば車を降りる。
境内を歩く。
手を合わせる。
そして、自分自身に問いかける。
「僕は、これからどう生きるのか」と。
その問いを抱えて、また次の札所へ向かう。
それを僕は、僕自身の遍路と呼びたい。
結願とは、八十八番に着くことだけなのだろうか
八十八番札所へ辿り着けば、遍路は終わる。
一般的には、そうなのだろう。
しかし、本当の意味で遍路が終わるのは、八十八番に着いた瞬間ではないのかもしれない。
四国から帰ったあと、また日常を生きていく。
そこで以前とは少し違う自分として生きられるなら、その旅はまだ続いている。
亡くなった人を胸に抱えながら、それでも明日を生きていく。
苦しみを抱えながら、それでも誰かに優しくする。
過去を変えられないことを知りながら、それでも今日を粗末にしない。
自分の人生を、自分自身で引き受けていく。
もしかすると、それこそが遍路の本当の結願なのではないだろうか。
遍路とは、何なのか
僕には、まだ答えがない。
そして、答えを一つに決める必要もないと思っている。
歩くことも遍路だ。
車で巡ることも遍路になり得る。
大切なのは、どの方法が正しいのかを他人に決めてもらうことではない。
自分は、何を抱えてこの道へ来たのか。
そして、この道を終えたとき、何を抱えて人生へ戻っていくのか。
そこに、その人だけの遍路があるのだと思う。
遍路は、苦労を競う旅ではない。
八十八ヶ所を制覇するだけの旅でもない。
神仏に願いを叶えてもらうためだけの旅でもない。
ましてや、誰かに「これは本物だ」と認めてもらうための旅でもない。
人生には、どうしても自分では変えられないものがある。
失ったものは戻らない。
過ぎた時間も戻らない。
人はいつか死ぬ。
それでも、その現実を抱えたまま、今日を生きなければならない。
だから人は、道へ出る。
歩く人もいる。
車で走る人もいる。
それぞれの方法で、四国へ向かう。
そして、道の途中で、自分自身と出会い直す。
僕は、それを遍路と呼びたい。
だから僕は、車で遍路をする。
誰かに認めてもらうためではない。
自分の人生を、自分自身でもう一度引き受けるために。
八十八ヶ所を巡るその先に、何が待っているのかは、まだ分からない。
それでも、僕は次の札所へ向かう。
まだ途中だからだ。
そして、おそらく人生そのものが、最後まで「まだ途中」なのだ。
だからこそ、人は歩き続ける。
だからこそ、僕もまた、四国の道を走り続ける。
これが、僕の遍路だ。
そして、僕はまだ、その答えを探している。